中学受験 社会の年表の覚え方

中学受験 社会 年表の覚え方

中学受験の社会で苦手意識を持つ子が多いものの一つが歴史です。歴史は流れをつかまなければならず、さらに覚えなければならないことも多くあります。そのため、頭の整理がつかず、苦手意識を持ってしまう子が多いです。

歴史が苦手な子の多くが年号の暗記で苦労します。膨大な年号を頭にインプットしていくことは簡単なことではありません。しかし、年号が頭に入っていないと流れをつかめないため、どうにかして覚える必要があります。

そこで、今回は中学受験で苦労するものの一つである、歴史年表の覚え方について紹介をしていきます。ぜひこれを参考にして、歴史年表をしっかりと頭に入れていきましょう。

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中学受験は算数や国語ではなく、「社会」の出来で合否が決まります!
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目次

中学受験歴史年号の覚え方は「語呂合わせ」がおすすめ!

中学受験は、学力試験がメインになりますが、学力試験で出題される問題は、公立小学校の授業で習う範囲の勉強だけでは足りないほど、出題範囲が広いです。そのため、小学校で習った勉強を完璧にするだけでは、到底太刀打ちできるものではありません。

中学受験の社会の学力試験に関しても、効率小学校の授業で習う、社会の勉強だけでは足りず、さらに上のレベルの学力を持っていることが、受験生に対して求められるので、子供は大変です。社会の中でも特に、歴史の年表の部分を苦手としている子供も多いです。

たくさんの年号と出来事を頭に入れることは簡単なことではありません。どれだけ整理して覚えやすくしてインプットしていくかが重要です。中学受験社会の年号を覚える際には、語呂合わせを取り入れることをおすすめします。

そのまま年号と出来事の数字では頭に入らないものも、語呂合わせにすればリズムがついたり、年号も言葉にできたりすることで、頭にインプットしやすくなります。語呂合わせになれば、遊び感覚で頭に入れやすくなるので、子どもたちも楽しみながら取り組めるという点でもメリットが高いです。

社会歴史の年号語呂合わせ一覧!

歴史年号を覚えるのには、以下の覚え方を参考にしてみてください。ただやみくもに覚えるよりも、語呂を意識して覚えると格段に覚えやすくなります。

古墳時代〜平安時代の年号覚え方

538年ː「百済の仏にご参拝」
仏教が百済から日本に伝わったのは、諸説ありますが、今のところ538年が有力とされ、上宮聖徳法王帝説に記載されています。もう1説は552年説で、こちらは日本書紀に記載されていますが、百済から外交として仏教が伝えられるよりも以前から、渡来人によって民間での信仰は徐々に広まっていたのではないかとも考えられています。

645年ː「無事故の改革、大化の改新」
大化の改新とは西暦645年から始まった政治改革です。しばしば勘違いされますが、中大兄皇子と中臣鎌足が悪者だった蘇我氏を滅ぼしたことではなく、この事件は乙巳の変(いっしの変)といい、これ以降の事件といわれています。
また、「改新の詔」を発令したことによって、地方の有力な豪族が土地を支配していた飛鳥時代が終わりました。
そして、日本の歴史上で初めて年号が使われました。このように、一連の大規模な政治改革を総称して大化の改新と呼ばれ、ここから日本の律令国家としての歩みが始まりました。

1053年ː 「人混みあふれる鳳凰堂」
1053年に、時の関白藤原頼通によって末法思想、浄土信仰の広がりから、阿弥陀如来坐像を安置した阿弥陀堂(=鳳凰堂)が建立されました。12世紀頃の平等院には、鳳凰堂以外にも、本堂に大日如来が安置され、不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいたそうです。最も大きな特徴は池の中島に建てられていることで、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面に映しています。鳳凰堂を正面から見た姿が、翼を広げた鳥のように見えることと、屋根上に1対の鳳凰が据えられていることから、江戸時代始め頃より「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。鳳凰堂は東方に面して建てられ、阿字池を隔てて西方に極楽浄土があることを示しています。
1000年の歴史を持つ平等院は世界遺産にも登録され、華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできる唯一の遺構です。

鎌倉時代〜室町時代の年号覚え方

1297年ː「皮肉な法令、永仁の徳政令」
徳政令とは、債権者に対して債権を放棄することを命じる法令のことで、いわゆる「借金帳消し」とイメージするとよいでしょう。
恩賞が不十分であったため、御家人たちが困窮し、 土地を売却・質入れすることで借金の返済に充てていました が、支配する土地を失った御家人は、収入も兵も失ってしまいます。
すると、いざ戦いになった際、お金も兵士もないため、幕府に奉公することが困難になります。この事態を危惧した幕府は、御家人の救済策を出しました。これが鎌倉幕府の執権、北条貞時が発令した永仁の徳政令です。
御家人が売却・質入れした土地を御家人に返還させる というものです。この永仁の徳政令によって、御家人たちは土地を取り戻し、再び収入を得ることができるようになりました。
例外として、普通の金貸しではなく御家人に売却した土地で、かつ売却後20年以上経っていた場合は返還不要とされていました。

1333年ː 「遺産さんざん鎌倉幕府滅亡」
将軍と御家人は「御恩と奉公」の関係で結ばれています。実際、1221年の承久の乱では、御家人は団結して幕府のために戦って勝利し、幕府も御家人の働きに対して領地を分け与えるなど、恩賞でこたえましたが、幕府からの恩賞が不十分で、いい加減な幕府に対する不満が方々で募っていました。その頃、政治の中心を天皇とする体制に戻したい後醍醐天皇の倒幕計画に多くの御家人が参加し、計画が露呈したことで天皇は島流しとなりますが、それによってさらに多くの武士たちが幕府に反旗を翻します。有力御家人であった足利尊氏も寝返り、1333年の激しい戦いの末に鎌倉は陥落、北条一門は滅亡。将軍は辞職して出家をし、鎌倉幕府は滅亡します。

1338年ː 「いざ都で幕府を開こう」
後醍醐天皇は政治の実権を天皇のもとに取り戻そうと、諸国の武士に命じ、1333年に鎌倉幕府を倒しました。その後、後醍醐天皇の政治「建武の新政」ですが、その政治手法をめぐって、実際に幕府を倒した足利尊氏ら武士と対立することとなり、最終的に後醍醐天皇は都を追われ、奈良の吉野に逃れて別の朝廷を立てることとなります。
足利尊氏が1338年に征夷大将軍に命じられ、京都に室町幕府を開きます。「室町」とは、平安京にあった地名で、そこに3代目足利義満が花の御所を造って住んでいたことから、この名前が付けられたようです。

1392年ː 「いざ国まとめよう、南北朝統一」
後醍醐天皇が自ら政治の実権を握っていた「建武の新政」が、たった3年で崩壊してしまい、武士の地位が下がっていくことを危惧した足利尊氏は、次の天皇として光明天皇を擁立し室町幕府を樹立しました。これに対抗した後醍醐天皇は、京都を抜け出して奈良の吉野へ行き、「南朝」を開くのです。京都の「北朝」と吉野の「南朝」が並立することになり、それぞれが正当性を主張して衝突。全国の武士たちも「北朝」と「南朝」のいずれかについて、激しい戦乱が巻き起こりました。1336年から1392年までのおよそ56年間を、南北朝時代といいます。

1467年 ː「人の世むなしい応仁の乱」
1467年、室町幕府8代将軍・足利義政の跡継ぎをめぐって有力な守護大名が対立し、京都から全国規模の内乱に発展したのが「応仁の乱」です。当時の幕府には各地の争乱を抑えるだけの力がすでに無く、将軍の権威は著しく低下しました。これ以降、日本は分裂状態に陥り、戦国時代の発端となったとされています。また、この戦乱の主戦場となった京都では、戦火によって多くの古文書や寺院など多数の文化財が消失しました。

1560年ː「今川いちころ桶狭間の戦い」
1560年6月5日、戦国乱世真っただ中に起こった、尾張(現在の愛知県)の守護代「織田信長」と駿河・遠江(現在の静岡県)地方を治めていた守護大名「今川義元」の戦いです。
当初、桶狭間の戦いは今川義元が圧勝するという風に、誰もが予想していましたが、この予想はひっくり返り、桶狭間の戦いの勝利によって織田信長の名は天下にとどろきました。
桶狭間の戦いの後、織田信長は勢いを得て美濃の斎藤龍興を破り「岐阜」と改名、上洛して足利義昭を将軍として擁立し、勢力を拡大させていったことはご存じの方も多いでしょう。

安土桃山時代〜江戸時代の年号覚え方

1582年ː「一行パニック本能寺」
本能寺の変とは、1582年6月21日、織田信長が備中で毛利氏と戦う羽柴(豊臣秀吉)を応援するために立ち寄った京都の本能寺で、家臣である明智光秀に襲われ自害した事件のことです。
織田信長が、甲斐の武田氏を滅ぼした後のことで、あと一歩で天下統一に手が届くと思われたときのことでした。明智光秀は、信長に中国地方への進撃を命じられましたが、ひるがえって京都の本能寺を攻撃し、天下人である織田信長が人生を終えました。
三日天下という四字熟語は、本能寺の変の後、明智光秀が短期間権力を握ったことに由来した言葉です。明智光秀はたった13日間という短い期間だけ権力を握り、その後は農民に殺害された、自害したなどの説があります。3日というのは短期間を表す言葉で、短期間だけ、権力や力を握ったという意味を表しています。

1635年ː「ヒーロー見事な参勤交代」
参勤交代とは、各藩の藩主が1年おきに江戸に来る制度です。ルーツは、鎌倉時代から始まった御家人に幕府が領地を与えたことに対する見参式にあるといわれ、参勤交代自体は、もともと外様大名が将軍への忠誠を示すために自発的に行っており、豊臣時代にはすでに存在していました。その儀礼的行為を、3代将軍の徳川家光が1635年の武家諸法度によって法令化して義務付けたのです。ちなみに、江戸に行くことを「参勤」、そして、自分の領土に帰ることを「交代」といいます。
諸大名を一定期間江戸に住まわせるという制度です。これは原則として大名を1年交替で江戸と国もと(領地)に住まわせ、その妻子は江戸に常住させたものです。このため全国の交通は発達したが、大名は巨額の出費を余儀なくされ、その妻子は幕府の人質という形になりました。また各藩にとって国もとと江戸の間を往来する費用の負担が大きく、経済力を弱めるねらいもあったようです。

1687年ː「色華やかなお犬様」

5代将軍徳川綱吉は「犬公方」と呼ばれることもあるほど、犬を大切にしていました。「生き物を大切にせよ」というお触れで、生類憐れみの令が発令されました。なぜこのような法令が発布されたかというと、「将軍様(綱吉)が世継ぎに恵まれないのは前世で殺生をした報いである。将軍様は戌年なので、特に犬を大切にせよ」と僧侶に進言されたためと言われています。

1774年ː「玄白吉沢らの解体新書に、非難なし」
解体新書は、ドイツのヨハン・アダム・クルムスという医師が書いた解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を、杉田玄白・前野良沢らが日本語に翻訳した本のことです。江戸時代の1774年に発行され、5巻(本文4巻+解剖図1巻)で構成されています。
日本初の医学系洋書の翻訳本で、その後の医療に大きく貢献し、国内に蘭学を広めるきっかけとなった重要な一冊です。

明治時代〜昭和時代の年号覚え方

1868年ː「ひとつやろうや明治維新」

江戸幕府にかわり新しい政府が誕生することで、近代国家に生まれ変わるための多くの改革を行ない、その指針を五箇条のご誓文として発表しました。新政府は、江戸を東京に改称して首都とし、年号を明治に改めて、新しい時代の幕を開きました。これを明治維新と呼びます。
中央集権国家をめざし、版籍奉還によって、藩の土地と民衆を政府に返すようにしたり、1871年には地方制度を見直して、廃藩置県を行ない、各県に県知事を任命して治めるようにしました。また天皇や皇族以外のすべての人を平等にするために身分制度を廃止し、民衆も名字を名乗り、住む場所や職業、結婚も自由にできるようになりました。一方で身分の象徴であるちょんまげや刀を持つことも禁止しました。
政府は欧米の国々に対抗するため、経済を発展させ、軍隊を強くする富国強兵を目指しました。この時に行なわれた学制、兵制、税制の改革は、現代の基礎となっています。
また、兵制は、1873年に徴兵令を出し、満20歳の男子は兵役を義務づけました。税制では、1873年に地租改正を行い国民に土地の所有を認めた上で、土地に対する税を徴収するようにしました。

1872年ː 「嫌なにおいの富岡製糸場」
明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つあり、1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。こうした考え方をもとに雇い入れられたフランス人、ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場(富岡製糸場)が設立されたのです。

1946年ː「国民がひどく喜ぶ憲法改正」
国民の人権の保障を強化した「国民主権」、戦争を放棄する「平和主義」、国民一人ひとりの生きる尊厳を保障する「基本的人権の尊重」は、日本国憲法の三つの基本原則とされています。国の政治は国民によって選ばれた代表者が行なう議会制が採用され、国民による選挙の重要性が高まりました。天皇は主権者ではなく、日本国と日本国民統合の象徴となり、天皇の国事行為にはすべて内閣の助言と承認が必要となっています。

【年号暗記地獄から脱出】中学受験の歴史年号を手っ取り早く覚えられる最強の教材を紹介

年号を暗記するのにあたり、参考になる語呂を紹介しましたが、これらはあくまでもごく一部です。多くの年号を覚えようとすると、まとまった問題集が欲しくなるものです。そこで、語呂を暗記するのにおすすめの教材として紹介します。合わせて、一般的な語呂のテキストの欠点も紹介するので、ご自身の語呂を覚える勉強についての見直しの参考にもしてみてください。

一般的なゴロ合わせ教材は決定的な欠点がある

すでに語呂の参考書を目にしたことがある人は、似たような語呂が多いと感じたことがあるのではないでしょうか。例えば1500年代の語呂だと「以後○○」というように、頭に15を当て字にした「以後」で始まるものが多く出てくるというケースがあります。同じような言葉ばかり並んでは、せっかくの語呂も頭に入りませんし、混乱する原因です。

次に、語呂が頭に残りにくいものが多いという問題もあります。語呂の内容も意味が分かりにくいし、説明も書かれていないという参考書が多いです。いざ語呂を覚えても、その出来事の説明や内容が思い出せなければ問題を解くときには役に立ちません。このように、一般的な語呂合わせの教材には問題点があるのです。

入試によく出る!最重要年号を厳選した「ゴロ将軍」

上で述べたような課題を解決すべく誕生した教材が「ゴロ将軍」です。入試で頻出の年号に厳選しているため、やみくもに色々な年号を覚える必要がありません。さらに、すべての語呂が頭に残りやすいようなフレーズになっていて、なおかつ出来事に関連したものになっています。そのため、語呂を覚えれば年号とその出来事まで簡潔に頭にインプットができるのです。

さらに、教材は薄くてコンパクトなので、持ち運びもしやすくなっています。塾の送迎待ちや、すき間時間での勉強にも手軽に取り組みやすいです。セットになっているCD教材もあり、講義形式で語呂のインプットができるという点も他の教材にはない特徴です。目や手での暗記だけでなく、耳からの暗記も加わることで、記憶にも残りやすく、頭の整理もしやすくなっています。

社会年号の覚え方に関するQ&A

社会の年号を覚えるにあたって、多くの人が疑問に思うような内容をQ&Aにまとめました。ぜひ参考にしてみてください。

社会年表の覚え方を教えてください。

年表を一度にすべて覚えるということは簡単なことではありません。そこで、まずは重要なもの、良く出題されるものから優先的に覚えるようにしましょう。ある程度覚えたものが増えてくれば、歴史の流れが見えてきます。その知識に新たな年号を増やしていくことで、知識を骨太なものにしていけば、最終的に全体の年表が頭に入るようになります。

歴史語呂合わせで面白いものはありますか?

平安時代の1156年保元の乱、1159年の平治の乱の語呂合わせで「いい子6人保元の乱」「いい子9人平治の乱」というものがあります。同じようなものが並びますが、いい子が6人いるのが保元の乱、9人いるのが平治の乱、という区別がつけられるので頭に残りやすいです。

歴史年号の語呂合わせで有名なものを教えてください。

794年の平安遷都の「鳴くよウグイス平安京」は誰もが知っている年号ともいえるものです。昔から他の語呂が使われることはほとんどなく、年号の語呂の定番となっています。同じく定番と言われているものに、1192年の鎌倉幕府成立の語呂である「いい国作ろう鎌倉幕府」もあります。ただ、こちらは鎌倉幕府の成立が1185年と言われるようになったため、最近では使われなくなっています。

まとめ

今回は中学受験で苦手意識を持たれるものの一つである、年号の覚え方を紹介しました。ここで紹介した語呂は一部ですが、参考にして覚えていくと、年表も頭に入りやすくなります。

年号を覚えるなら、語呂も頭に入りやすく、なおかつ歴史の出来事がわかりやすいものでなければ、意味がありません。語呂が覚えやすく、頻出のものが厳選されている「ゴロ将軍」は年号を覚えるのにとても参考になる問題集としておすすめです。

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